前編・無料公開
ないものを、作る
― ある街の美容師が、パッチテストの道具を生むまで ―

プロローグ ― 鏡の前で

僕は、街の美容師です。

大きな会社の人間でも、研究者でも、発明家でもありません。毎日、鏡の前でお客様の髪に触れ、その人の「なりたい」に応えることを仕事にしてきました。

ヘアカラーは、人を変えます。色が変わるだけで、背筋が伸びて、表情まで明るくなる。その瞬間に立ち会えるのが、僕はずっと好きでした。

でも、その裏側で、ときどき見てきたものがあります。染めたあとに肌がつらそうになってしまう人。「私、髪を染めるの、こわいんです」と小さな声で言う人。ヘアカラーが好きなのに、体質のせいであきらめてしまう人。

染める前に、自分の肌がその薬剤に合うかどうかを、ちょっと確かめておく。ただそれだけのことで、“気づけた”はずのつらさが、確かにありました。

メーカーさんは、ちゃんと書いてくれています。「ご使用の前に、必ずパッチテストを」と。

でも――そのテストを、無理なく、暮らしのなかでできる“道具”は、どこにも売っていませんでした。

ないなら、作るしかない。そう思ってしまったのが、たぶん、すべての始まりでした。

第一章 ― 「そんなの、あるはずでしょう」

軽い気持ちだった、と言えば嘘になります。でも、自分がどれほど大変なことに足を踏み入れたのか、あの頃の僕は、まるで分かっていませんでした。

あとになって知ったことがあります。世の中に“すでにある”製品を作るのは、実は、そんなに難しくないのだそうです。前例があるから。お手本があるから。「これと同じようなものを」と言えば、話が前に進む。

でも、僕がやろうとしていたのは、まったく違いました。この世に、まだ存在しないものを、形にしようとしていたんです。

世の中にないものを生み出すというのは、本来、大きな会社が何年もかけて、試行錯誤を重ねてやること。正直に言えば、一個人が手を出せるレベルの話ではありません。今の僕なら、はっきりそう言えます。

でも、当時の僕を動かしていたのは、戦略でも計算でもありませんでした。ただ「お客様に必要だから」。それだけで、走り出してしまったんです。

第二章 ― 半信半疑のデザイナー

一人では、何もできません。まず必要だったのは、頭のなかのぼんやりした「こんなもの」を、きちんとした設計に落としてくれる人――プロダクトデザイナーでした。

正直に書きます。最初、その人は、僕を信じていませんでした。

無理もないんです。ものづくりの経験もない街の美容師が、ある日「世の中にない道具を作りたい」と言ってくる。本気なのか、ただの思いつきなのか。どこまで付き合えばいいのか分からない。半信半疑で、はじめのうちは、あまり親身にはなってもらえませんでした。

「ないものを作ってくれ」というのは、頼まれる側にとって、いちばん困る依頼なんだと、あとで知りました。できるかどうか分からないものに詰め寄られるのは、そりゃあ、嫌ですよね。当時の僕は必死で、そのことにも気づいていませんでした。

それでも、通い続けました。図面を挟んで、何度も、何度も。

ずっとあとになって、その人は、ぽつりと言ってくれました。「――本当に、できましたね」と。

あの一言を、僕は今でも忘れられません。信じてもらえないところから始まった関係が、最後にそこへたどり着けたことが、何より嬉しかった。

第三章 ― 図面はできた。でも、作れない

設計ができあがれば、あとは作るだけ――そう思っていました。今思えば、本当に甘かった。

プラスチックの部品を形にするには、“金型”というものが要ります。その金型を作ってくれる工場を探して、頼んで回りました。「こんなに簡単そうなもの、すぐできるでしょう」。自分でも、そう思っていたんです。

でも、現実は違いました。断られる。「うちでは難しい」と言われる。試作をしても、思い描いたとおりのものにはならない。図面の上では完璧に見えたものが、現実の“モノ”になろうとする瞬間、想像もしなかった壁が、いくつも立ちはだかりました。

ゼロから何かを作るというのが、こんなにも大変なことなのか。頭で分かっていたつもりのことを、手と足で、思い知らされました。それでも、試作を重ねて、重ねて――紆余曲折の末に、ようやく。手のひらの上に、“それ”が乗った日のことは、今も鮮明に覚えています。

第四章 ― 特許という、長い廊下

生まれたものを守るために、特許という仕組みがあります。でも、それを取るまでの道のりもまた、簡単ではありませんでした。

専門的なことがたくさん絡むので、ここでは詳しくは書きません。ただ、これもまた、出口の見えない長い廊下を、一歩ずつ歩くような時間だった――とだけ、記しておきます。

こうして一つずつ、「本当にできるの?」と誰もが思うことを、地味に、地道に、越えていきました。

第五章 ― 箱に、名前をつける

中身ができても、それをお客様に届けるには、“箱”が要ります。パッケージのデザインも、自分でやりました。美容師をしながら、デザインの心得が少しだけあったからです。

データを作り、印刷会社に持ち込んで、箱の形にする。自分の手から生まれたものが、ちゃんと“商品”の顔をして目の前に並んだとき――少しだけ、泣きそうになりました。

頭のなかにしかなかったものが、設計になり、部品になり、製品になり、箱に収まって、誰かに手渡せるものになる。その全部を、ゼロから、この手で辿ってきたんだな、と。

第六章 ― 慣れないスーツと、渡し方も知らない名刺

作っただけでは、届きません。今度は、それを必要としてくれるかもしれない人たちのところへ、自分の足で運ばなければならなかった。

慣れないスーツを着て、工場や、大きな会社を訪ねました。恥ずかしい話ですが、名刺の渡し方の“基本の基本”すら、僕は知りませんでした。美容室ではショップカードを渡しますが、きちんとした挨拶や、正式な名刺交換なんて、したことがなかったんです。お客様に教えてもらったり、自分で調べたりしながら、拙いなりに、覚えていきました。

大きな会社にメールを送り、直接、足を運びもしました。担当の方に軽くあしらわれて、嫌な思いをしたことも、正直、あります。普通なら、そこで「やっぱり自分には無理だ」と引き返してしまうのかもしれません。

でも、どうしても、形にしたかった。ここまで来てしまったら、もう、引き返せなかったんです。

第七章 ― メーカーさんは、ちゃんと書いてくれている

ここで、どうしても誤解のないように書いておきたいことがあります。

僕は、ヘアカラーのメーカーさんを、責めたいわけではありません。むしろ、逆です。

メーカーさんは、ちゃんと書いてくれているんです。箱にも、説明書にも。「染める前に、必ずパッチテストを」と。伝えるべきことを、きちんと伝えてくれている。

ただ――そのテストを、暮らしのなかで無理なくやれる“道具”までは、そこにありませんでした。「やってね」と書いてある。でも、やるための手立てが、まだなかった。その、ほんの少しの隙間を埋めたかった。ただ、それだけなんです。

だから僕は、こう思っています。メーカーさんも、サロンも、お客様も。あと一歩だけ、みんなが手を取り合えたら、きっと、丸く収まる。「染める前に、ちゃんと確かめる」が、特別なことでも、面倒なことでもなく、当たり前になる日が来てほしい。

大きな会社じゃない。ただの、街の美容師です。それでも、どうしても必要だと思ったから、作りました。

エピローグ ― これは、前編です

この物語は、まだ途中です。

道具は、できました。でも、それが本当に「当たり前」になる未来は、まだ来ていません。だからこれは、“前編”。

ここから先――みんなが安心してヘアカラーを楽しめる世界を、どうやって作っていくのか。その後編は、これから、読んでくださっているあなたと一緒に、書いていくものだと思っています。

最後まで読んでくださって、ありがとうございました。